奈良 生駒市 帯ときものやまぐちです。

京都のきものの歴史

平安京への遷都が行われると,朝廷では絹織物技術を受け継ぐ工人たちを,織部司(おりべのつかさ)という役所のもとに組織して,綾・錦などの高級織物を生産させ,貴族の彩色豊かな衣服がつくられていった。鎌倉時代に入ると,武士の天下となり専従職人たちは解雇されるが,大舎人町(おおとねりまち)というところに集まり,大陸から伝えられる新しい技術を取り入れながら,生産を続けた。

応仁の乱で京都の街は焼け,職人は各地に四散するが,戦乱が終わると戻った職人が,西軍の陣地跡で織物業を再開し,まちは「西陣」と呼ばれるようになった。江戸時代には,小袖の発展とともに,きものを留める紐であった帯が装飾的となり,存在感を示すようになった。

世界に誇るものづくり都市である京都から,きもの文化は伝播した。江戸時代,各藩は京都に「呉服所」という御用商人を置いており,こうした商人は呉服類の調達のみならず,儀礼のための装束や作法などを教示する役割を担っていた。やがて,絹織物の着用が百姓町人にも認められるようになるに伴い呉服商は発展し,新たな商法を入れた三井越後屋をはじめとする巨大店舗が生まれた。三井越後屋が室町に仕入れ店である京店(きょうだな)を置いていたように,多くは生産の中心地である京都に本拠を構えて,江戸や大坂などの消費地へ営業を展開していた。

高級呉服商雁金(かりがね)屋に生まれた尾形光琳(おがたこうりん)は,元禄時代を代表する絵師であるとともに,きもののデザイナーとしても活躍した。江戸時代中期には,京都で人気のあった扇絵師宮崎友禅斎(みやざきゆうぜんさい)も,呉服商からの依頼を受けて,きものの図案のデザイナーとして活躍し,自由で斬新なデザインの友禅染は,大流行した。

当時の意匠,織技術,染色技術などは圧倒的に京都が突出しており,その流行は上方から江戸へ伝播し,やがて全国へと広がった。また,街道の整備や経済の発展により京都と地方の取引が盛んになるにつれ,全国各地に技術が伝わった。

尾形光琳のほか,明治以降は竹内栖鳳(たけうちせいほう),堂本印象(どうもといんしょう)ら京都を代表する画家たちが友禅の下絵を描くなど,絵画的な美しさが磨かれていった。